top of page

 僕がオーストラリア移住を健康問題であきらめた時、横浜から移り住んだのが、伊豆半島の伊豆高原だった。

 

 ここで僕は伊東市とイタリア・ラッチオ州のリエティ市が国際交流をしていると知った。これは僕には素晴らしい機会だと思った。イタリアとの交流の何かにお役にたてたら、僕が外国人としてミラノで受けた恩義にわずかでもお礼返しが出来るかと思ったからだ、もちろん僕自身も楽しみながら…。

 

 リエティ市はワイン樽を半分に切った急流での「樽乗り」、伊東市の松川の「たらい乗り」が結びつけた縁だった。

伊東市とイタリア・リエティ市との交流 ボランティア 1

 伊東市国際交流協会に参加して、リエティ市との交流に参加することができた。

 

  リエティ市との間では、相互訪問を含めて、密な関係が出来ていた。

 

  ・毎年の高校生による相互訪問

  ・リエティからの短期留学生による伊東市民を対象とするイタリア語講座

  ・リエティ市から寄贈されたオリーブオイルを絞る大きな石臼の設置イベント

 

 僕はリエティからの学生によるイタリア語講座のサポートに時間を使った。ひと夏、5週間くらいのイタリア語クラスの補助をやるのだ。イタリア語は初めての市民の方々が、イタリア語の日本語とは全く違う発想法を、日本語で解説し、イタリア語で質問できない事を、日本語で説明してあげるとかの役割だ。

 

 僕のイタリア語の勉強にも勿論なった。これは、イタリアからの学生と日本人の生徒が出くわす問題を解くお手伝いとなった。

 

 2001年は「日本におけるイタリア年」だった。リエティからボランティアの人、6名がやって来て、オリーブオイルを絞る大きな石臼を記念碑として設置した。この6週間の間のイタリア語によるサポートは、大きなイベントだった。

 完成式典には、イタリア大使も出席され、リエティの市長をはじめ、多くのイタリア人が伊東市民に暖たかく迎えられ、巨大な石臼が伊東市の「リエティ広場」に出現した。この工事は本当に大変なもので、八月の炎天下、イタリア人はもくもくと働いて、イタリア人は怠け者…という意識を変えていった。このオリーブオイルの石臼は、今も松川・大川橋たもとに建っている。

 

 この石臼の据え付け作業をしたチームの中に、今は亡くなったフルヴィオがいた。

  彼は金属加工の専門家で、ローマのポポロ広場に立つサンタ・マリア・デル・ポポロ教会の丸屋根の修復工事に参加していた。1099年頃の教会の屋根だったの鉛の素材と、それを止めていた釘をプレゼントしてくれた。重かったろうに、ありがとう。

 あと僕が、かかわったことは、外国人に対する「リビング・ガイドブック」の作成だった。

 

 これは英語で、国際交流協会の数人のメンバーで作ったもので、伊東市に住む外国人、転入する人たちの初歩的なガイドブックだった。この最初のページは、やさしいひらかなで、このガイドブックの説明文を、英文も付けて作らせてもらった。

これが、僕のイタリア語を使ったボランティアの始まりだった。

bottom of page