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母方、竹﨑家の家系

いきさつ

 

 父方、徳山姓の600年に亘る長いルーツが確認できたとき、フッと思ったのは、母方のルーツについて、僕はほとんど知らないなということだった。

 

 このままだと、僕の子供たちは僕の母方のルーツを知ることはなく、結果として、彼らの子供たち(僕の孫)に、それを語ることもできないなと気がついた。

 

 幸い、自由が丘に母方のいとこが住んでいるので、昔やった「いとこ会」をもう一度やってみたいねと頼んだのが、この(2014年)1月だった。

 

 このいとこ会は、僕の半血兄弟の姉、故長崎京子が東京の母方の竹崎家のいとこたちを集めて、何度か若いいとこたちを引き合わせてくれたのが始まりだ。そこへ僕と姉が参加していた思い出がある。40年くらい前のことだ。

 

 

<40年前のいとこ会>

 母の実家、竹崎家は、德山家が中国山脈のど真ん中に発したのに対して、真逆の高知の太平洋沿いの奈半利町の家系だということは知っていた。でも、それ以上は知らなかった。

 

 5月の末、竹崎の家系のいとこ、6名が自由が丘のKWさんの家に集まった。旦那や、子供たちを連れてきたから、10名の大宴会になった。

ルーツ探し

 

 この時に、竹崎のルーツについて、みんなが知っていることを書き出して見たら、僕の祖父、竹﨑音吉の二代前、竹﨑覚右衛門までさかのぼることが出来た。彼とその子、才吉は事業を起こし、樟脳の生産と酒の蔵元で財を成して、奈半利の名士になった。

  その頃の主屋、蔵、離れは、「文化庁遺産オンラインで、登録有形文化財(構造物)」で、「竹崎家住宅(旧高田屋)」として登録されて、残っている。下記のリンクから

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/115047

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/192969

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/137738

 

 さらにその子供、竹崎音吉が、竹崎家の名声の基礎を確実にした人物らしい。その母方の祖父、音吉が、娘、僕の母、嘉與を、僕の親父、德山巍に嫁がせた人物であると分かった。これが僕の原点だ。

<音吉と寅彦>                                           <資料>

 竹崎音吉は、作家の寺田寅彦の高知中学、熊本第五高等学校(今の熊本大学)、そして東京帝国大学の同級生として知られた人。寅彦と一緒に、五校で夏目漱石に英語を習ったと、文献「藪柑子集の研究」(高知市民図書館発行)に書かれている。

 

 音吉は、東京帝国大学を卒業の時、昔の高等文官試験をパスして大蔵省に入り、当時大蔵省の外局だった専売公社のキャリアを積んだようだ。今でいえば、超エリートの道を歩んだわけだ。

<音吉の礼装>

叔父の達雄

 

 その一人息子、竹﨑達雄(僕の叔父=母の弟)は、まさに破天荒な人だったようで、昭和の初めの法政大学(偶然にも、僕自身の出身校)の学生の頃から、モダンな生き方をしていたようだ。1933年(昭和8年)には、法政の飛行部に入って、東京上空を飛んでいる写真もある。

<法政飛行部>

<羽田上空>                                     <機上の達雄> 

 跡取り息子の達雄は、大学を卒業して高知に帰っても、その進取の気性は変わらなかったようだ。土佐に帰って家を継いで、1935年(昭和10年)には、奈半利や室戸あたりを、自動車を運転したようだ。80年前にマイカーだ。ぶったまげる。

 跡取り息子の達雄は、大学を卒業して高知に帰っても、その進取の気性は変わらなかったようだ。土佐に帰って家を継いで、1935年(昭和10年)には、奈半利や室戸あたりを、自動車を運転したようだ。80年前にマイカーだ。ぶったまげる。

 1939年(昭和14年)には外国製のオートバイを乗り回していたようだ。カメラにも凝って、ドイツ製のカメラを手に写真をたくさん取っている。

 1939年(昭和14年)には外国製のオートバイを乗り回していたようだ。カメラにも凝って、ドイツ製のカメラを手に写真をたくさん取っている。

 本当に進んだ人だったようだ。さらには、田舎町に映画館を建て、ガソリンスタンドを作り、金はどんどん出ていったと思う。

 

 この叔父、達雄の子供たちの5人のうち2人が、今回のいとこ会に出てくれた。達雄の妹、僕の叔母の寿子の結婚相手は法政の同級生の山形氏だったが、その子供3人も来ていた。つまり、竹﨑のいとこが5人と僕の6人だった。今の奈半利の竹崎家は、僕と同じ年の邦博さんが守っている。彼とは、20年近く前、奈半利で会ったことがある。古くからの屋号、「高田屋」を守っているようだ。

 本当に進んだ人だったようだ。さらには、田舎町に映画館を建て、ガソリンスタンドを作り、金はどんどん出ていったと思う。

 

 この叔父、達雄の子供たちの5人のうち2人が、今回のいとこ会に出てくれた。達雄の妹、僕の叔母の寿子の結婚相手は法政の同級生の山形氏だったが、その子供3人も来ていた。つまり、竹﨑のいとこが5人と僕の6人だった。今の奈半利の竹崎家は、僕と同じ年の邦博さんが守っている。彼とは、20年近く前、奈半利で会ったことがある。古くからの屋号、「高田屋」を守っているようだ。

<高田屋>

 

 

思ってみると

 

 僕が小学4年の頃、親父、徳山巍と別居して、僕の直ぐ上の姉を連れて土佐に帰った母、嘉與。母からは詳しく聞いていない竹﨑の家系が少し分かった。僕の祖父、竹崎音吉まで、ちゃんと遡れた。

 

 音吉は1928年(昭和2年)に、自分の遺志と、家訓的な物を残している。読んでみると、これがすごい。

 

 竹崎家の歴史を見てみると、いくつかおもしろいことが見えてきた。

 

  ・女系家族だということ 

        :音吉の子供、母、嘉與の兄弟は、男1人と女4人

        :母の弟、唯一の男、達雄の子供は、男1人と女が4人

        :母の妹(次女)の子供は、女だけ2人

        :母の妹(四女)の子供は、男2人と女1人 

        :徳山の僕の兄弟も、女2人と男の僕

 

        :音吉の子供と彼の孫たちは、男5名と女13名で、女が圧倒的に多い

 

  ・開放的な、進取の気性に満ちた、元気な、発展的な、エネルギーに満ちた家族だった 

    :音吉は東京帝国大学2年で妻を持っている 

    :達雄は、車に乗り、飛行機を操縦し、オートバイで駆け回り、カメラを使った

 

  ・土佐の旧家は、竜馬を引き合いに出すまでもなく、先進性に満ち、世界が広い

 

  ・学問に投資する気風:音吉は東大まで寅彦と同期 達雄は法政大

 

 こう見てくると、僕の中にも、先進性、開放性、発展的なエネルギッシュな竹崎家の血が混じっているかなぁと、思い当たる節がいろいろ浮かんでくる。

 

 「山の民」のしたたかさと、「海の民」の開かれた世界をあわせ持つ血が僕の中を流れているわけだ。

 

僕にとって、とてもいい「いとこ会」になった。和子ちゃん、ありがとう。

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