top of page
美作国徳山氏の歴史  「徳山一族」 (日本家系協会、平成10年)
 

 「美作国の徳山氏は豪族なり。即ち、同国真庭郡徳山村より起こる。

 世々、上徳山の地頭職たりしものにて、応永年間の徳山右馬丞より、永禄の徳山新四郎に至る180年間、山中に於いて権威ありて、徳山屋敷などの古跡存す。

 

 その後、衰微して津山領となり、中庄屋たりという。

 

 当地の徳山家の初代といわれる徳山将監は、南北朝末期に嫡男右馬丞とともに美作守護職赤松氏の重臣岩倉権守春時(上徳山岩倉城主)の家老であったといいます。このころ、伯耆の守護山名時氏は南朝に帰順していましたが、後に南朝側から離れたので、1353年、幕府は山名時氏の次男義理(よしまさ)を美作の守護にします。このため、美作の勢力地図は大きく変わり、岩倉権守春時は山名氏のために滅ぼされます。  

 

 正平17年(1362年)山名時氏の美作攻略後、徳山将監は山名氏に属して、一時紀州に転戦し雨山城に居を構えますが、後に旧里に帰ったと伝えています。徳山家にはその時のものと伝えられる、応永2年(1395年)の「しゅうけん」から右馬丞に宛てた田地譲状1通が残っています

 

 当時は兵農未分離の時代ですから、戦国時代に至るまで、美作の国人として勢力を張ったのでしょう。太閤検地などによって兵農分離がなされた頃から徳山家も帰農したと考えられます。  

 

 江戸時代末期の文化頃の利左衛門から周蔵、集蔵の3代の間に、徳山家は急速に土地の集積を進め、文政5年(1822年)には100石を越えて、山中地方(真庭郡北部)屈指の地主へと成長します。徳山家は、「山中タバコ」の販売を営むとともに、酒・酢・醤油製造なども手がけ、上福田村庄屋、中庄屋などを歴任し、村内での指導的地位を確立します。また、周蔵、集蔵の代には鉄山経営にも乗り出し、美作から伯耆にわたり30数山の鉄山を持って、砂鉄の採取から鍛冶屋経営まで-つまり、鉄の採取から製品生産までの工程を一貫して経営する大鉄山師となっていきました。

 

 明治以降も、集蔵の孫朝太郎が川上村長を勤めるなど、地域の名家として存続しています。

 「川上村史」(昭和55年)などをもとに記述。

 

 注:川上村は、現在、岡山県真庭市蒜山上德山と変名されています。

bottom of page