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2013年イタリア映画祭、「日常のはざまで」を見て 

 

下記は、「イタリア映画祭2013」のブローシャーより抜粋。

 

抜粋の始まり:

 「日常のはざまで」”L’intervallo”

 レオナルド コンスタンツオ監督

 

 ドキュメンタリーの分野で活躍してきた監督が、ナポリの郊外に生きる18歳の少年、サルヴァトーレと、15歳の少女、ヴェロニカの心の移ろいと、置かれている現実をじっくり描き出す初の劇映画。

 

 荒れ果てた無人の建物に拘束されるヴェロニカと、理由も知らずに彼女の監視を強いられるサルヴァトーレ。反目する二人だが、同じ時間を共有するうちに二人の関係に変化が生じ始め、拘束の理由も明らかになっていく。

 

抜粋の終わり

 

 見ての最初の印象は、難しい映画だということだった。

 これまで、このイタリア映画祭では、もっぱら、喜劇、悲喜劇と、イタリアを代表すると海外の映画祭で絶賛されたものを見てきたから、ちょっと面食らったわけだ。

 

 閉じられて放棄された修道院とその町並の空間に、二人の一日という時間経過の中でのゆっくりとした展開で、これはドラマなのかと思わせる映画だった。

 

 確かにドキュメンタリーの世界から来た監督だなあと思いながら見ていた。しかし、見ている方には、フラストレーションがたまっていく。見る方に対する親切心(?)が全くなく、監督の思いに満ちた時間と場面が続く。確かに、夕立の激しい雨のシーンとか、廃墟の中の深い森のシーンとか、少しずつお互いの理解が進むというようなところでの観客への救いはあった。

 

 見終って、監督の代理の代わりにイタリアからやって来た、このフィルムの編集者とのQ&Aの時、真っ先に手をあげて質問した女の人の言葉が、言い得て妙だと思った。「なんでこんな映画を、日本まで持ってきて見せる必要がるのか?」と率直に、ちょっと怒りを含んだリアルな質問だった。

 

 しかし、見終って少しずつほどけてきた解、すなわち答えが、僕にはあった。

 それは、映画の題名から呼びさまされたイメージだった。

 「日常のはざまで」は、日本語のタイトルとして意訳し過ぎなのだと思う。

 

 イタリア語の辞書で確認すると、

  L’intervallo :日本語でいう「インターバル」には、大きく二つの意味が含まれているということだ。

   ・時間的な間(ま)の意味

   ・空間的な間(ま)の意味、すなわち不連続な世界

 

 僕のこの映画の表題の解釈は、

   ・時間的な間(タイム):すなわち、昨日から明日への「間」、すなわち今日と、

   ・日常の普通の生活空間(スペース):すなわち、朝起きて始まる仕事と、その仕事の終わりの夜迄の「間」、すなわち空間の(ま)が見えてきたのだ。

 

 時間的には「切り取られた今日」という一日であり、空間的には「日常の仕事場の浜での掻き氷屋」という仕事と、「隔絶された廃墟での監視の仕事」という、

非連続の空間体験だったのではないかということだ。

 

 この映画の定義する「間」は、時間そのもの、心模様、これからにつながる時間としての今日みたいなものにも見えてきた。

 

 さらに言えば、この一日の「間」の存在は、日常性の延長にある明日、明日のみならず、将来に向けた大きな別の展開の可能性を示唆しているようにも見える。

 

 最後の場面は、印象的だった。

 同じ掻き氷屋をやっている自分の親父と朝、別れて、そして夕方に再び会って、「今日はどうだった」と聞かれると、サルヴァトーレは、「いつも通りだよ」と答えたシーン。

 

 今日という、特別な「間」の後に、昨日と同じ明日が続くとも言っているようだが、実は、昨日と明日の間には、大きなインターバル:「間」が存在しているってことを、監督は言いたかったのだろうと勝手に解釈し、自分で納得した。

 

 <この絵は、映画祭のHPからお借りしました>

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