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イタリア映画祭の残影 2009,2010  

 この2年ほど連続してこの映画祭を見ている。そして、楽しんでいる。

 

 体の調子が悪くて、マリオンまで出かけることが出来なかった時期がある。だから、この前は2003年ということになる。

 

 僕がイタリアの惚れていることも、楽しい理由の一つだし、生のイタリア語を聞けるのもうれしい。

 時には、作品の映画監督とのQ&Aが出来たりすると、さらに楽しめる。

 

 2009年には、こんな映画を見ている。

 

「ミケランジェロのまなざし」

2004年/15分 監督:ミケランジェロ・アントニオーニ

Lo sguardo di Michelangelo (Michelangelo Antonioni)

 

「プッチーニと娘」

2008年/84分 監督:パオロ・ベンヴェヌーティ
Puccini e la fanciulla (Paolo Benvenuti)

 

 1909年のトスカーナ。湖畔の館でプッチーニはオペラの作曲に取り組んでいた。ところが、彼との情事の容疑をかけられた小間使いが自殺する。会話を省き、手紙を読むモノローグと自然音だけの空間と、美しいカメラワークで風景を写し取る。

衝撃的な場面展開。それは、娘の自殺後の解剖の結果、彼女は処女だったと証明されたのだ。疑いは、疑いでしかなかった。

最後のどんでん返しだった。

 

「やればできるさ」

2008年/111分 監督:ジュリオ・マンフレドニア
Si può fare (Giulio Manfredonia)

 

 精神病院の全廃が進められていた1980年代のミラノ。労働組合員のネッロは、革新的な考えのために疎まれ、元精神病患者たちがいる施設に左遷されてしまう。元精神病患者たちと、平等に接するネッロ。労働の尊厳を固く信じている彼は、元患者たちの背中を押して事業を立ち上る。困難を乗り越えていく、前向きな姿に励まされる。

 

 元精神病患者達は、寄木細工のフロア職人となって、自己に自信を持ち、仕事をこなしていく。そして、「女を買う」なんてことを含めて、普通の男になっていく。笑えた。こういうのが、本当の喜劇だと思う。

 

 

 2010年にはこんな映画を見ている。

 

「勝利を」

2009年/128分 監督:マルコ・ベロッキオ

Vincere(Marco Bellocchio)

 ベロッキオ監督とのQ&Aで「彼ら二人が、どうお互いに惹かれて、恋人関係になったのかが、あまりよく分からなかった」と質問した。何故なら、その後の二人の大変な時間とエネルギーを説明するのは、始めの出会いの強度が大切だと思ったからだ。だから本当は、批評のつもりだったのだが、「男と女は恋におちるものさ」とユーモアで逃げられてしまった。

 

 この映画は、邦題は「勝利を」と訳されているが、ムッソリーニの愛人のイーダの「一生の闘い」だったと思う。つまりムッソリーニの「妻」として、また息子の「母」として、社会的に認知され自分を実現するための壮絶な闘いだった。

          

 映画の中では、自己の存在を社会に認知されることはなく終わった。       


 結果は、勝利したも読めるし、勝利できなかったとも解釈でき、それを見る人に委ねたキャプションだったのかも…。すばらしい映画だった。
 

 人間の心の葛藤、それに基づく行動、激しい闘い、なかなか出会えないドラマで、僕の一生の記憶に残るイタリア映画の一つだと思う。

写真も本当に美しかった。雪、雪、雪の描写は、印象的で今でも目の前に浮かんでくる。

 

 この映画に対する、ある女性の感想は、要約すると次のようだった。

 

 実際のムッソリーニとイーダが認識するムッソリーニの間に大きなギャップがある。この恋愛関係は、もしかるするとイーダの一方的片思いで、ムッソリーニのニュース映像を見て「はげちゃっていたけど、眼孔の鋭さだけは変わらず、あの人だった」っていうところに現実の2人の距離が現れているのでは…。

 

 男性の僕の視点との違いを強く感じられた感想だった。やはり、映画は単眼ではなく複眼で見ることが正しく真実に迫れるのかも…と思う。

「ハートの問題」

2009年/104分監督:フランチェスカ・アルキブージ

Questione di cuore(Francesca Archibugi)

 

 本当は「心臓の問題」として見えた。自分も心臓に構造的な問題があるので…。
 二人の男が、心臓病で仲良くなる。退院後も友情は続く。

 財力のあるほうが、もう一方のの貧乏な人を助ける。しかし、病気の状態は、財力のある方が急速に悪くなる。彼は、誰にも知らせず、自分で決意して、自分の死後の全てを貧乏な友達に託す。妻も、子供も、お袋も、仕事も、金も、全てをだ。

 

 前半はコミカルに、そして後半は、死を自覚した人の強さ、素晴らしさを存分に見せてくれた。

 

 こんなふうなイタリア映画に接すると、今の日本の「洋画」を席巻するアメリカ映画のワンパターン、心を映し出す意図の希薄さ、勧善懲悪的で見ても何も残らない貧しさを思い、悲しくなる。

 

 昔は、こういう質の高い映画が日常的に上演されていたことを思いだす。

 新宿の「アートシアター・ギルド」なんかで見た、レネ、ゴダール、トリュフォーなどのフランス・ヌーベルバーグや、フェリーニの難解なイタリア映画、デシーカの偉大さとか。

 

 なんだか、みんなが単純に、付和雷同型の映画を好むようになったのかもしれない。

 これは、どちらかというと、悲しいことなのだと思うのだが。

 

 来年のこの映画祭をもう期待している。

 

 

<イメージは、「2010イタリア映画祭」のブローシャーをお借りしました>

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