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2021年 イタリア映画祭

 

Part1

短篇映画 2編 

 

 今年もコロナで残念ながら数寄屋橋マリオンでの上映はなくなった。昨年に続いてコロナは、僕の長年の楽しみである映画祭の邪魔している。

 無料での短編を2編見ることができた。 代金を払っての2時間版は別途時間を見つけて、作品を見定めて5月のどこかで見てみようと思っている。 白状すると2時間の映画を、72時間、つまり三日間で見切るというのは結構大変。昨年の経験から言えば、集中しなければ「見たな」という感じにはならない。大きなスクリーン、大きな音響、さらには他の観客の反応、仕草、笑いなどを含めた臨場感はオンラインにはない。 オンラインでは伝わってくるものを、こちらから積極的に取りに行かなければ、得られるものではない。

#1 タイトル:あなたの不幸はわたしの幸せ

 

2017年 12分 原題:Io sì, tu no

監督:シドニー・シビリア Sydney Sibilia

出演:グレタ・スカラーノ、リーノ・グァンチャーレ

 作品説明:抜粋

抱腹絶倒の短編コメディー。1981年若い世代の就職活動をめぐる厳しい状況から作品は生まれた。主人公は学歴や資格にもかかわらず、仕事を見つけるのに苦労している若者のフランチェスカとマルコ。数少ない職を得るために、2人はお互いに巧妙な手段でライバルを出し抜こうとする。

感想

  この映画は面白かった。2人とも失業者で、仕事を求めて四苦八苦している若者である。しかし、その事を二人はお互いには知らない。 ドラマの導入部は、後で分かることなのだが、 フランチェスカがバイトをしているバールに閉店時間直前にマルコが現れて、何か飲めるかと聞いたことから始まる。 2分間でビールを飲み終えたマルコは、フランチェスカに今日はこれからどうするだと聞く。

 

 この夜二人は、フランチェスカのアパートでセックスして寝り込んでしまうという。 しかし、この就寝時間中に、二人は一人ずつ相手に対するトラップを仕掛ける。フランチェスカは次の日が就職の面接だった。マルコは、その7時の目覚ましを2時間遅らせてしまう。方やフランチェスカ夜中に起き出して、マルコが作っている履歴書を見てしまう。フランチェスカはマルコの履歴書にいたずらをして、変人だと思われるような写真を張り付けてしまう。マルコはそのことは知らない。

 

 翌朝、フランチェスカが目覚めた時には、マルコはいなくなっていた。面接時間に2時間遅れて到着したフランチェスカを待っていたのは、面接は受けられないということだった。

 

 そして、そのオフィスにマルコが順番を待っている事を目撃する。 マルコとフランチェスカは同じ会社を受験することになっていたのだ。 マルコはフランチェスカが最有力候補であるということを知っていたので、彼女の目覚ましのタイムを後ろにずらして、失格させるというトラップに嵌めたのだ。 彼女が最有力だということは、その会社に勤めている友達に情報を盗んでもらい、それを買い取っていた。フランチェスカが就職に失敗するように仕組んだ作戦だったわけだ。

 しかし、マルコは自分の履歴書を面接員に渡した時に、昨夜フランチェスカが夜中に起きだして、履歴書に加工していたことを知らなかった。結果としては変な奴ということでマルコも受験に失敗する。

 フランチェスカとマルコは仕事探しの 競争相手、つまり敵と敵の関係だったわけだ。 しかも、マルコは最初から彼女の情報を持って近づいたのだ。

  就職試験に落ちたフランチェスカは、マルコの結果を知ろうとロビーで待っていた。 本当だったら相手を罵倒しあう関係であるはずだが、昨夜のセックスを含めて、お互いがお互いを好きになってしまっていた。そこには愛が芽生えていた。

 会ったその日にセックスまで行くという展開は、ちょっと無理筋だけれど、匍匐絶倒の短編の作品に仕上がっている。10分の中にこれだけのシナリオを押し込んで、しかも見るものを笑わせることができるのは、イタリア人の才能だからかもしれないと思った。 とても楽しい映画としての印象が残った。

 

#2タイトル:フィオーリ、フィオーリ、フィオーリ!

 

2020/12分 原題:Fiori, fiori, fiori!

監督・出演:ルカ・グァダニーノ Luca Guadagnino

作品説明抜粋 

新型コロナウイルスの感染拡大によるロックダウンの最中に、生まれ故郷のイタリア・シチリア島で監督ルカ自身が撮影した短編ドキュメンタリー。監督は子供時代の友人たちを訪ね歩き、全世界が一つになったこの特別な日々を彼らがどのように生き抜いているかを記録するとともに、監督自身のルーツを見いだそうとする。

感想

 

 Fioriとはシチリア島の山に咲く、いろいろな花のことを意味している。シチリア島エトナ山をバックとして、ルカ、つまり監督自身が6日間の短編ドキュメンタリーを作ったのがこの作品だ。昔からの友人を尋ね歩いて、このロックダウンの2ヶ月間をどう過ごしてきたのかということを聞くことによって、彼のシナリオが成り立ってゆく。

 

  まずは、3人の子供を育てているシングルマザー、マリアと話をする。 印象深かったのは、このコロナが終わった時に、このコロナ禍をどう振り返るだろうかという問いに対して、彼女は「怠けることが許される」ということを思うだろうと話す。パレルモのマッシモ劇場に勤める友達は、「まさに暴力的な2ヶ月間」だったと嘆く。 この世界で3番目に大きいといわれるパルコ・マッシモにも人が入らない、入れないということで危機が訪れている。

 一番、僕の心に残ったのはデヴィット カイガニックが語る次のような言葉だった。

 一人で過ごすということは 暗喩として「森」意味するのではないか。 つまり森が健やかになるためには周期的に焼き払う必要がある。 つまり山焼きだ。今、自然(地球)は発作を起こして自律神経に異常を来たしている状況だと暗喩で語る。 つまりコロナは地球を一度再生させるための、破壊のサイクルなのだという意味だ。

 実は僕もこのコロナは地球の創造主、つまり神が人間の横暴さを戒め、地球自体のバランスを再度保つために、人間に課している大きな試練だと思っている。 あまりにも人類はやりすぎた。 地球の存在そのもの危うくするほど、人の活動は大量のCO2を発生させ、他の動物、植物に対して野蛮なる行為をしていると写っているのかもしれない。 つまり人類に生き方を変えさせるために、このコロナを人間の世界に派遣したのではないかとの暗喩として受け取っている。

 

 そして最後にカイガニックは、「自分と他者の境界線を認識し、孤独が人間の魂に良い働きをもたらす。そういう意味では、今こそ他者はあなたに役立つのだ」と言っている。素晴らしい警告だと思う。

P.S. :絵はすべて、映画のワンショットを借用しています

 

Part 2

「こどもたち」                         

 率直な感想を言うと、この映画はコメディーだと作品紹介にあったから選んだが、コメディーではなく、僕に取ってはリアルな深刻な物語だった。

 

映画祭の作品説明

こどもたち

 

 

 

<こどもたち> 

[2020/97分]原題:Figli

監督:ジュゼッペ・ボニート Giuseppe Bonito

出演:パオラ・コルテッレージ、ヴァレリオ・マスタンドレア、ステファノ・フレージ

子育てに奮闘しながらも翻弄される夫婦を演じるコメディー。一人娘のアンナと幸せな生活を送っていた共働き夫婦のサラとニコラは、2人目の子供ピエトロを授かることになる。第2子を持つ生活の大変さを友人らから聞いていたもののなんとか乗り切れると思っていた夫婦だが、いざ4人の生活が始まると、自分たちが思うようには物事が進まない。周囲の助けもなかなか得られず、家族のバランスは崩れていく。

作品説明終わり

 

物語 

 僕が理解した物語を書いてみるとこうなる。テロップで日本語も流れるが、キィワードだけに近い。つたない僕のイタリア語のレベルでは、ちゃんと理解するのは難しい。現在のイタリア社会と家庭を知らないのも、すっと入ってこない原因だと思う。

 

 イタリアのローマに住んでいる結婚15年の夫婦の物語だ。ニコラとサラ、そして娘のアンナの3人で平和な時間が流れていた。最初の子、アンナはあまり手がかからなかった。

  昔は大家族的であったけれど、最近のイタリアは個の家族での生活が当たり前のようで、日本に劣らず人口が急激に減りつつある。 イタリア経済が、昔ほど多くの人間を養うような力を持っていないという訳もあるだろう。      

  こういう環境でサラとニコラに、二人目の子供ができる。 セックスをしているのだから子供が産まれてもおかしくないが、まあ、なんとかなるさという気持ちが二人にはあった。

 

 友達は二人目の子供を持つなんて、とんでもないと否定的だった。 しかし妊娠したら子供が生まれてくる。 二人は無邪気にも、それを喜んでいた。しかし、それは大きな嵐の前兆だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<家族4人>

 1+1は11、つまり1+1=2ではないと気がつくのは、後になってからだった。

 二人目の子供、 長男ピエトロが生まれたことによって、嵐の世界に変わっていく。 ピエトロの自我が芽生えてくる。赤ちゃんは3ヶ月が過ぎると自我を発揮し始める。子供は夜、泣き叫ぶ。サラは仕事を休むことになった。ニコラが唯一の収入を得る立場になり、妻のサラは子育てに翻弄される。夜泣きが始まると寝られない。

 高いカウンセリング料を払って、小児科医に相談する。母親は出来る限り赤ちゃんと一緒にいることが必要だと告げられる。 カウンセリング代400ユーロ、薬代が400ユーロ近くもかかった。食料品店の店員、二コラの収入だけのつましい生活には、10万円は大きな支出だった。

  サラにしてみれば「妻」だった自分がいつのまにか「ママ」になっていた。義父母に相談するが、年齢を理由に子供の面倒は見てくれない。サラは怒って、「あなた達の世代が自分たちの事しか考えないで生活してきたから、こんな生活を私たちがしているのよ」とキレる。すると義母に「私たちは若者100人に対して165人もいるよ。団結すれば強いのよ」と脅かされる 。この辺りはコメディーかも…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<老人は強いのよ>

 娘、アンナも自分中心の生活ではなくなって、一人で外出するようになる。そして弟を無視しようとする。家族の画を描くと、3人のだけの絵になる。ピエトロなんかいない方がいいと言う 。

 

 画面には、悲壮な雰囲気を現わしてベートーヴェンの悲愴のピアノ曲が鳴り響く。

 時には気分を変えるために、夫婦は子供なしでデートしてみるが、子供達への気持ちが現れ、疲れて映画館で寝てしまう二人。

 外の自由な空気を吸いたいママ。二人の仲が険悪になっていく。ピエトロが嵐の中心になる。子供を消してあげようかというオヤジが夢に現れ、びっくりして目を覚ます。悪魔のささやきだ。これは潜在意識の現れかもしれない。

 毎週の家庭の仕事を。ホワイトボードに名前をつけて貼り付けてみる。2人での共同分担作業が明示される。それを試してみるが、二人の感情はパサパサになってくる。外で、食事をしていても会話のない二人。別々の友達の所で時間を過ごす。疲れた二人に危機が訪れる。 そして、子供達にあたる。

 しかし、やはり二人はどこかで、コミュニケーションをとりたくなる。なんとか四人の生活が成り立ち始める。サラも仕事に戻る。

 騒がしいカーニバル、沢山家族が参加するパーティー、そこはカオスそのものだった。四人は逃げ出して二人は仲直り。 やっと二人の子供の存在を含めての生活が始まって行く。

 小児科小児科医の忠告、子供たちはあなたたちの鏡なのよ!仲良くしてちょうだい!を受けて、子供たちとの生活が良くなっていく。サラも落ち着いて、仕事が出来るようになってくる。

 

<アンナの画にピエトロも>

 

 

  やっと余裕のある生活が成り立つようになる。勿論、 激しい口論ももどってくる。 

感想

 果たして、これは特異な状況なのだろうかという疑問が湧く。日本であろうが、イタリアであろうが、どこの国であろうが、当然出くわす二人目の子供の問題だと思う。

  これをあえて取り上げたという映画は、それ自体がコメディーかもしれない。 結果的には、日常は気にもしない平和を再確認するチャンスになったのではないだろうか。これこそが、監督の狙い目だった…のかもしれない。しかし、これをコメディーというのは、あまりにもひどいとしか言いようがない。

 こうした問題を映画にした日本人監督はいるかと探すが、どこかほんわかとした家庭を描くことが当たり前で、家庭の中にある悲劇を描き出すという人はいなかったかもしれない。

 そういう意味で、この作品は日本人にとっても再発見のきっかけかもしれない。いつだって、これは当たり前、普通だと思って生きている日本人にとっては、これが 特別な世界であるということを、思い知らされたのではないだろうか。

 

 このフイルムを見て、一つ疑問が残るのは、時々、サラやニコラが窓から飛び降りるシーンが差し込まれている。これは何を意味するのだろうか?自分が消えたいという思いなのだろうか? 

P.S. :借用した絵は、このフイルムからのスクリーンからのショットです。

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